赤鬼法性院(あかおにほうしょういん)伝説
直瀬に伝わる伝説の中に「赤鬼法性院」という人のお話があります。
時は江戸時代、杣野(そまの)村に住んでいた「法性院」という修験者は、人の身長より大きな石をかついだり、二俵の米俵を背負った馬をかついだりするほどの力持ちでした。
杣野村といえば、面河の前組地区あたりを指しますが、当時は直瀬の村と同じ領内であったため、頻繁に人の行き来がありました。もちろん、直瀬の村人は力持ちの法性院のことをよく知っており、あまりの怪力に恐れをなした一部の人が、がけの下にいる法性院めがけて上から大きな岩を落として殺してしまおうとしました。法性院もさすがにこの岩を受け止めることができず、大けがを負ってしまいました。そのため、最後は、石墨大権現にすがろうと、その祠(ほこら)に入り、祠の岩に垂れる水のみで数日しのぎましたが、とうとうこの地で息を引き取りました。
法性院の骨はそのまま祠に残りましたが、「この骨に触ったら、法性院のたたりで、必ず大雨が降る。」と恐れられ、後々この骨には村人も触らなかった、と言い伝えられているのだそうです。
以上のお話は校長室にある「直瀬に伝わる赤鬼法性院伝説」という小冊子を短くまとめさせていただきました。前直瀬区長さん、ありがとうございました。
さて、祠というのは、石墨山中腹の洞窟にあり、それに関する記事が1か月ほど前に愛媛新聞に掲載されたそうです。その記事を読んだ校長の旧友、元上浮穴郡ALTのRさんから「旧直瀬中の遠足で、当時の中学生とそこに行ったことがある。もう一度行きたい。ぜひ一緒に行きましょう!」との誘いがあり、8月8日、Rさん一家と共に登ることにしました。
1学期の遠足で子どもたちが訪れた「法性院力石」は直瀬地区の段組にあります。
この大きな岩を持ち上げたという伝説の人の最期の地です。どんな秘境かと思っていましたが、直瀬から車で15分も走れば、登山道の入り口に到着し、そこから1時間ほどで、その洞窟にたどり着きました。
杉林、松林に囲まれた急な登り坂をひたすら歩きます。途中、樹木が途中で折れたり根こそぎ倒れたりして道をふさいだ場所もありましたが、歩き始めて1時間ほどで突然目の前が開けたと思うと、目の前に現れたのは大きな岩肌でした。その岩盤の根元がえぐられたように奥に切り込まれていました。
その奥の方に、小さな祠が二つ。その片方には骨壺とおぼしき陶器の白い入れ物とその奥に白いタッパーが祀られていました。法性院の骨は骨壺の中に、でもさすがにこの骨壺のふたは開けられないなぁ・・・、と思ってよく見てみると、タッパーの中に見えるではありませんか!骨が!!それが法性院のものかどうかは分かりませんが、どなたかの遺骨が祀られているのは確かなようです。
その小さな祠のそばに、人が何人も入れるお社が建っていました。
この場所で一休みして、持参していた「法性院伝説」の小冊子をみんなで聞き合いました。
直瀬のこのような伝説はいつまでも残っておいてほしいものです。直瀬っ子のみんなが地元直瀬のことを知る、という当たり前のことを実現するには、我々大人たちがしっかり勉強して語り継ぐ必要があるようです。
1997年4月16日に遠足でこの地まで歩いて来た旧直瀬中の卒業生の皆様ほか、多くの登山者の皆様、法性院さんの眠るこの洞窟は、伝説を守る方々の手によってしっかり保存されていますよ。
道端にひっそりと咲く花々もかわいらしくて癒されます。またぜひ足を運んでみてください。